2004年 叔父の記録 No.1

これは13年前に父の闘病記の続きとして書いていたものです。一時、サイトに掲載していましたが途中で掲載を中止していました。叔父が旅だったのをきっかけに改めて掲載してみることにしました。この頃は別途ブログ(日記)も掲載していてます。ブログを読む場合は2004年5月の記事で読めます。

 

 

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父が、最期に一番会いたかった人。それは父の茨城に住む弟だった。亡くなる前日叔父が電話で父と最期の話をしたとき、父はしっかりと受話器を握り、叔父が「俺が行くまで待ってろ」と父に電話口で言った言葉にも反応した。会えなかった事はとても残念であったが、電話で返事をした父を見て最期まで兄としての威厳を保とうとしたあの態度を見れたことは残された私には良かったと思う。

その叔父は父の葬儀では、絶対に涙を流さなかった。私に「お前がいくら頑張っても運命には逆らえないんだ。頑張っても助からなかったと責めるより、運命だったとあきらめろ」と言った。その言葉は印象に残り、多くの人から頑張ったと、闘病をたたえる言葉を頂いたより、強く印象に残っていた。 「運命だ」という言葉は叔父の本音でもあり、自分にも納得させるための言葉だったのだと思う。

気になったのは、叔父が私の自宅で一瞬ふらついた事で、寝不足だからかと思ったがやはり不安で、栄養剤を渡し、横になってくれと頼んだ。もちろん叔父は横になどなるはずは無い。単に年を取ったからだろうか?

年末でお店があるからととんぼ返りで帰るといい、その帰り際「兄貴の写真を一枚だけ送ってくれ」と言い泣き崩れた。「男泣きは許せない。帰る」と、歯を食いしばって私に背を向け帰っていった。

父の葬儀を済ませ、1ヶ月程して、叔父は1週間ほど入院をしていた事を知る。痛みと食欲不振から入院をして検査をするという事だったが、私には嫌な印象を受ける入院だった。それは、検査の結果があいまいで、納得の出来る説明ではなかったという事と、退院しても症状が取れていないという事からだった。まるで父が癌であると判るまでの経過とそっくりだった。父は入院こそしていなかったが、痛みがあると訴えても「なんともない」と相手にされず、痛みの原因は明らかにはされることさえなかった。今、悔やむとしたら、病院を変えなかったことだろうか? 電話で、叔父は痛みが消えない、棒でつついたような痛みがある、と不安そうに私に訴える。叔父の痛みは何処から来るのか? 私にはそれが一番不安だった。しかし、叔母は、父が亡くなったことで叔父がショックを受けた事も大きな原因の一つだと言った。ショックを隠すためお酒の量が増え、食事は取らなくなったという。 叔父の家から私の家まではかなり距離があるが、眠らずに運転をしてここまで来て、そして葬儀の後にとんぽ帰りをした。疲れが残っても当たり前だと思うが、痛みはまた別のものだと感じている。

それより自宅でふらついたときの叔父の姿は私の目の前から消えない。 ただ、なすすべもなく時は過ぎる。 時々、ファックスを送ったり、電話をしたりしていたが、やはり叔父からいいニュースは聞けなかった。痛みが取れないし、食欲もわかないと言うし、何処となくいつもの勢いが感じられない。 叔父は6年前に大腸ポリープを患い手術をしていた。その手術をした病院に今も通っていて、主治医は今も同じだったようだ。しかし、痛みが取れないのなら病院を変えてみたらどうかと、薦めてみるが、叔父は「自分の手術をした医者だから、自分の病状を一番良く知っているからな」と言い、病院を変える気は無いという。 その後の電話で、「大腸の内視鏡検査をすることになった」と言った。ならば、結果が気になるのでファックスをくれるか聞くと、叔父は「結果が判り次第、ファックスする」と言った。しかし、待っても来ない。 「結果がどうだった」など、しつこく聞かれることは嫌いだと、容易に想像ができた。それは父と性格が似ている部分があるからで、父だったら逆に怒るだろうと思う。 とはいえ気になる気持ちは抑えられない。そのため他に理由をつけて叔父に電話をしてみた。

「検査には行かなかったよ」

と言う。あっけにとられた。父よりひどい。 しかし、よく聞いてみると、検査が辛いのを知っているためにどうしても足が向かなかったという。6年前の検査の時には痛くて、辛くて失神をしそうになったらしく、それを思い出すだけで検査をする気になれないらしい。それを聞いて「検査に行け」と言えるだろうか?  父が言った事を思い出す。

『検査は二度とやらないからな』

 胃カメラが大変だったために言った一言だった。 叔父も同じなのだろう。 父との闘病を知らなければ「ダメだよ、そんなこと言ってたら。検査はしないとダメ!!!」と言っていたに違いない。今の私は

「そうだったの。そんなに検査が辛かったの。だったら行きたくなくても仕方が無いよね」

と叔父に同調する事の意味を知っている。

「でもな、我慢したら我慢できないことは無いんだぞ。たまたまその日は体調が悪くてな。どうしても行きたくなかったんだ」

と答えた。

「体調が良くて行ける時でいいじゃない? 無理に検査してまた、倒れそうになってもいけないから」

と笑って答えた。 翌週、叔父は検査をした。 

「辛かったね。しんどい検査なのに、大変だったね。でも、結果が出ると安心できるからね」

「思ったより辛くなかったぞ。医者が腕をあげたみたいで、痛みも無かったし、楽に終わったよ」

と笑って言う。 この会話の後、検査の結果の電話は何時までたっても来ない。今私は叔父に電話をすべきか? それとも、叔父からの連絡を待つべきか? この時私は待つほうを選んだ。しばらく沈黙の日にちが過ぎた。

ある日、私の母が朝起きて「夢を見た。茨城の叔父が出てきた」と言った。私はぞっとした。 実はこの日の朝、私も叔父の夢を見ていたのだった。 叔父が「癌になった」と冷静な表情で言った夢で、とにかくこの日の朝は目覚めが悪かった。 しかし、母が同じ日に同じ叔父の夢を見る、こんな偶然が起こることは珍しい。私は嫌な予感に支配され、昼間は何も手に付かなかった。私はどういうわけか叔父に電話をすることが怖かった。所が「やはり叔父には電話をすべきだ」と母が言い出した。

「再度検査をした結果、大腸がん、肝臓転移だと診断された。抗がん剤治療をして、癌を小さくしてから半年後に手術をするかどうかを決めると言わた。今は抗がん剤を服用している」

叔父の電話での答えは驚きとショックを受けたのは当然だったが、「やはり」という嫌な勘が当たった時の感覚を持った。 この感覚も、父の時と同じだった。それと同時に、どうして叔父が? という疑問がわいてくる。しかし誰も答えを出してくれることは無い。叔父は「なるようにしかならない」と、ファックスに書いて送ってきた。しかし、それは自分を慰めるための言葉であり、こうなってしまったら医者に任せるしかない、と思っているようだ。 それでもどこか不安がある。叔父の説明を聞くと、医師の所見に不安を持ってしまうし、半年後に手術という説明も納得が出来なかった。それは以外にも叔母も同じであった。 電話で叔母と話をすると、叔母が不安を抱えていることを知った。私は、叔母に検査をしっかりしてもらうことと、セカンド・オピニオンを受けることを薦めるが、叔父はいう事を聞く人ではないし、しかしこのままでは不安だと言う。叔父の性格は本来、頑固で、他人の意見を素直に聞くタイプではない。どこかで聞いた事のある性格だ。それは私の父である。遺伝子だろうか? とにかくそのままにしておくことは私には出来ず、どうしたらいいのか悩んでいた。

そんなある日、私のネットの師匠であるJ・I 氏が、叔父と同じ茨城に住んでおられ「もしこちらに来ることがあるなら連絡を欲しい」と声をかけてくれた。同じく、最近知り合ったY・T さんも偶然にも同じ茨城県に住んでいる。同じようにY・T さんも、こちらに来るなら連絡を欲しいと言ってくれた。 私はこのチャンスはきっと逃してはならないものだと感じた。たまたま知り合った人が茨城に住む人だなんて!!!!

 

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「父」 参考書籍」 グリーフ・ケア」 情報(cancer)」 他」 

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