2004年 叔父の記録 No.2

早速叔父に

『茨城に友達がいる。その友達に会いに行くので、帰りに叔父さんの家に寄りたいが、何時が都合がいいか』

とFAXをした。 そして叔父からの返事

『Fax受け取った。こちらの方に来るとの事。

自分の好きな日に来なさい。

あまりもてなしはできないけれど、食事ぐらいは食べれる

先ずは連絡迄

T(叔父の名前)』

 私はもちろん、茨城に行く予定を組んだ。 J・I氏とY・Tに会い叔父の家へ行くという予定にした。事情を知っているJ・I 氏の予定に合わせ、5月5日、自宅を出た。 6日、予定通りJ・I 氏と会うことができ、茨城を案内して頂いた。そても紳士で、優しい雰囲気と、暖かいまなざしを持っている方で、会えて良かったと思った。私の父の闘病について「大変な経験をされた。そういう経験は人間を深くする」と教えてくれた。そういう人間になりたいと思う。

この方は以前大病をされ、それを乗り越えてこられた。その後、仕事と、遊びと、ボランティアとのバランスを保ちながら生きて行きたいと考えるようになったそうで、スローライフの勧めをされている。私は、この方の人間的な重みと、自分の生き方を見つけた強さのようなものを感じる。

案内してくださった海を見て、今まで父との闘病に費やした1年をとても遠くに感じ、乗り越えなくてはならない出来事だったんだろうと、そんな気にさせられた。 知り合った頃に、私が好きだった花の写真を送ってくださったがその写真を写した公園に案内していただき一緒に散歩をした。5月にしては肌寒い一日だったけれど、穏やかで、心が温かくなる散歩だった。

話は尽きないが、この後会う予定になっているY・Tさんの自宅まで送ってくださった。 Y・T さんの自宅ではお茶を頂きながら3人で色々な話が出来た。 あっという間に時間が過ぎ、J・I氏は自宅へ戻る時間になったとき、もっと時間を作っておくべきだったと、後悔をするけれど、又会えるとそう信じて、別れた。 

この夜、Y・Tさんの自宅でお世話になった。夜はレストランへ連れて行って頂き、美味しいお食事と、楽しい会話を楽しんだ。Y・Tさんのご主人も大病を患い、その闘病中にスキルス胃癌が発見された。そして、人生の幕を閉じたのは、私の父と時期はそう違わない。 その為、様々な話をお互いに話ながら、涙を流し、時に笑顔で語り合った。この夜のことは忘れないだろう。初めてお会いした方なのに、初めてであるとは思えず、ずっと以前から知り合い出会ったような錯覚さえ覚えた。それは、きっと同じ経験をしたもの同志であるからだろうか? 理解が出来るという言葉をあまり簡単に使いたくは無いけれど、闘病中の気持ちに関しては本当に理解が出来ると感じた。

翌日は、叔父の家にY・Tさんが送ってくださるという。お言葉に甘えて、送っていただいた。雲を探しても見つからない天気の良い日で、このときも又、もっと時間を作っておけば良かったと後悔した。

あっという間に叔父の家に、到着。車を止め、店を覗く。そこには叔父の姿が。お客さんの髪を切っていた。叔父は床屋で、夫婦二人でお店を何十年と守っている。 その叔父の仕事をする姿は、昔と変わっていなかった。店も古くなってしまったが、几帳面に手入れがされて、古くなった以外のことは昔と何も変っていない。時間というものはどうして過ぎてしまうのだろうかと、不思議にさえなる。  

叔父は私の姿を見つけるとお客さんの手を止め外に出てきてY・Tさんに、「姪っ子がお世話になりました」と頭を下げた。この叔父は確かに私の叔父であると実感した瞬間だった。

家の中も、私が最期に見た光景と変っていなかった。懐かしさをかみしめながら叔父の家で、Y・Tさんとお茶を飲んで少し、談笑した。叔父は痩せていた。抗がん剤の副作用である黒しみも出来ていた。 それ以外は、叔父の声、表情はいつもの叔父であった。 Y・Tさんとはしばらくのお別れとなる。又、近いうちに会えるという気がしていて、「又ね」と言って別れた。

私は子供の頃によく叔父の家に遊びに来ていた。お店はとても忙しく、ほったらかしにされていた記憶がよみがえる。そして今も変らない「今、お客さんをやっているから忙しいからな」という言葉を言い残して店に戻った。 叔母は私のために布団を干していてくれた。 この日の夜はやはり、私の父の話が殆どの話題で私は父との生活を、叔父は父との思い出を交換し合い、話は何時まで経っても尽きることは無い。 結局、何日泊まるのかと叔父も叔母も私に聞くことは無く「お前はお客じゃないからな。働け」とだけ言った。 叱られるといけないので(笑)お店のタオルなどを洗濯し少しだけ働いた。

見ると私よりもずっといいパソコンがパソコン台に置いてあるのに気がついた。「インターネットやっているの?」と聞くと「当たり前だ」とえらそうに言う。何でも新しいものは買いたがるが買うだけ買って使えないらしい。インターネットも使えないと言う。これは私には絶好の武器になる。それから私はパソコンの修理をしインターネットが使える状態にした。 お店の合間に、叔母からそっと叔父の状態を聞いた。すると、叔母は今の病院に疑問を持っているということと、癌が転移をしているので先が短いのではという恐怖を感じていた。特に、痛みがあり食欲が無い叔父にどう対処していいのか判らないため、強い不安を持っていた。 叔父が自分の病状を私に知らせるため、病院の診断書を見せてくれた。叔父も口に出して言わないが、この先を不安に感じていた。私が一番不安になったのが、抗がん剤治療を中止し、今は何も治療をしていないということだった。検査はするらしいが、どうして抗がん剤治療を中止したのか。私には理解が出来なかった。 そこで私の武器となった叔父のパソコンをフル活用し出来る限りの情報を集め、何が叔父にとって一番良いのかを探した。

この頃はちょうど《癌患者の家族をサポートする》という会を立ち上げて活動していた時期だった。その仲間たちも情報を調べたり集めるのに協力してくれたのは本当に助かった。

毎日パソコンと向き合う私を見て「お前は詳しいんだな」と少し意外そうに言う。 調べた情報は叔母に伝え、そして叔母とこの先どうすのが一番よいかを話し合うようにしていた。子供が3人いて私からすると従妹だが、3人とも病院を変えて欲しいと思っているらしい。私も今の病院の治療に不安を感じ、セカンド・オピニオンを薦めた。叔父も叔母もセカンド・オピニオンというものが何であるかという詳しい知識もなく、セカンド・オピニオンを受ける方法も知らなかった。何より、病院を変えるという事は医者ともめると思っていて、そういう事が出来るということすら疑っていた。 こういう時は意識改革から行わなくてはならない。叔母はやはりセカンド・オピニオンを受けるべきだという結論に達したが、問題は叔父本人だった。どうやって話を進めたらいいのか悩んだけれど、根気よく話をし、家族も全員がセカンド・オピニオンを受けることに賛成していると叔父を納得させるしかない。

数日後に病院で検査があるという。この日、私は叔父と一緒に病院へ行き、セカンド・オピニオンを受けたいという事を説明し、写真などの画像を借りたいという話を病院側にしにいく事にした。勝手に決めたことなので叔父が納得するかどうかは別だが。叔父に話をしてみると

「そうか?お前が一緒に行って話しをしてくれるか?」

と言う。

「もちろん」

と答えたが意外なまでに叔父が納得しスムーズに話が進んだので少し戸惑ったほどだった。 病院はいくつかピックアップしたが、叔父や叔母が通うのに一番良い病院を薦めた。たまたま叔父の息子Yくんが東京に住んでいて、それも国立がんセンターの近くであると知る。この偶然を使わない手はない。Y君もすぐに行けるから国立ガンセンターがベストだと言った。叔父も入院の事を考えたら東京がいいと思っていてセカンド・オピニオンは国立癌センターになった。 

お店が終わると、夕食をとりながら一緒に話をして時間を過ごしていたが、この日の夜、一緒に写真を取る事にした。叔父が自慢のデジカメを取り出したが、使い方が今ひとつ判っていない。そんな叔父を見ていると、とても微笑ましくなる。結局は私の手助けが必要となったが、それでも一緒に写した写真は思い出に残るものになるだろう。

 翌日、私の運転で病院へ。

 病院を一緒に歩いている間、父との闘病生活を思い出していた。父とも何度一緒に病院を歩いただろう? 一人で診察を受けるより、私が一緒に診察室にいることを望み、医師からの説明も私がどう理解したかを気にしていた。叔父はこの日は検査だけであったが”主治医と会えるといいが”、と私が主治医と会うことを望んでいるようだった。その気持ちが理解できる。

結局、主治医には会えなかったが、セカンド・オピニオンを受けたい事を看護士さんに説明した。が、なんと看護士さんはセカンド・オピニオンと言う言葉を知らなかった。叔父がセカンド・オピニオンの意味を知らず、どうしていいか判らないというのも理解が出来ると感じた。自分が当たり前だと思っていることは全ての人にも当たり前ではない。その、当たり前を自分は叔父に主張してきたが、叔父にとっては不安があり、理解をするには時間がかかるのだろう。そえれでも「私の当たり前」に叔父が信頼を寄せ、頼りにしてくれるようになったのだと思う。

私に任せて欲しいとは、言えなかったが、不安になる必要は何もないという事を再度叔父に説明をした。すると叔父は「ここの病院もいい加減だな」と病院に対しての不安をのぞかせた。結局、レントゲン写真などの資料や、主治医の紹介状は用意するという事で話がついて、自宅へ戻った。 その足で私は家に戻ることにした。駅へは叔父が送ってくれた。

「お前の運転は危なっかしくて仕方ないからな」

と、自分はまだ元気だし、運転ぐらいなんともないと言っているように私には聞こえた。  駅に着く少し前

「駅に着いたらお前を下ろして直ぐに帰るからな」

と言ったが叔父らしい。駅に到着する瞬間付け加えるように

「又来い。今度来るときが葬式じゃ話にならないからな。いつでもいいから又来い」

と言う。

「もちろん」

と答えるだけで精一杯だった。ここにシャイな叔父に父の面影を見る。今、私は幸せだと感じた。父はきっと元気であるなら叔父の元へ来たかっただろう。そして、恥ずかしそうに叔父を励まし、今の私と同じように駅まで送ってもらったに違いない。そして、叔父は「又来い」と言っただろう。父なら「判っている」と答えたと思う。そして「頑張れ」と言い残しただろう。私も叔父に「頑張って」と言った。  

駅に着き、車を降りてドアを閉めると本当にすぐに車を発車させた。あっという間に叔父は見えなくなった。言葉どおり「駅に着いたら直ぐ帰った」。

 

その他記事は『カテゴリー/flower』 

「父」 参考書籍」 グリーフ・ケア」 情報(cancer)」 他」 

​でご覧ください。

この記事のカテゴリーは: